キヨに捧ぐ 山﨑有里子
「キヨが生きていたらどんなに喜んだだろう」
アルバム “Feeling Like A Child”が42年の時を経て生まれ変わると知ったとき、真っ先に頭に浮かんだのはそのことでした。キヨ、中島君と私は中学校の同級生です。当時からふたりは音楽をやっていて、学校でも目立つ存在でした。高校生になるとチャー坊が加わり、彼らのブルースバンド“MILK HOUSE”は、三浦君、野口君、私が通う高校の文化祭でもB.B.Kingなど渋いブルースを聴かせてくれました。思えばあの文化祭が、”Presents” のメンバーの最初の出会いだったのです。キヨとは家族同然の長い長い付き合いでした。リマスターされた音源を初めて聴いたとき、流れてきた彼の声に思わず目頭が熱くなりました。懐かしいキヨの声やギターが聴きたくて何度繰り返し音源を流したことか。キヨが作ったA面の最初の2曲は、今聴いても新鮮で本当にいいのです。音楽を愛してやまなかったキヨ、あなたの生きた証がこんな素敵なアルバムになって蘇ったよ!
レコーディングについて 日比野(蒔田)礼子
小学校の同級生の三浦君と野口君に、レコード制作参加の声をかけていただいたのは、社会人になって1年くらいの頃だったと思う。図々しくも会社の何人もの上司の方々にレコードを購入いただき、今でもお会いするたびに「あの時レイコに無理矢理レコード買わされたよなぁ」と言われている。当時のレコーディングの事はあまり覚えていないが、今自分の歌を聴き直してみると、あまりの拙さで赤面しそうである。でも、何も考えずにただ歌う事が好きでたまらなかったこの頃の自分を思い出し、これからも真っ直ぐ歌に向き合っていきたい気持ちになった。個々の曲も素敵だけれど、皆さんの絆が描かれた一枚の絵画の様に感じられるアルバムではないかと思う。参加させていただいた事、そして今回制作に関わって下さった全ての方々へ感謝申し上げます。
ドラマーと音楽活動 野口匡
三浦とは小学5年生の時、同じクラスになり遊ぶようになりましたが、いたずらをしてばかりで将来バンドをやるような気配は微塵もありませんでした。ヴォーカルの日比野礼子も同級生でした。そのころ、巷ではGSブームがで、私はテレビに映るドラム奏者に憧れていました。中学も三浦と一緒で、クラスや学校の音楽発表会で何度かビートルズの曲を演奏し、中3の時に三浦と組んだバンドで人前で初めてドラムを叩きました。ドラムセットを手にするのもこの頃で、三浦がグレイシーのドラムを調達してきたと思います。その後、貯金をおろしてパールのツインタムのサンダーキングを買いました。高校、ここでも三浦と一緒です。三浦はこの頃から多重録音に興味を持ち、私がドラムとボーカル、三浦がギター、ベース(これもギターで)を弾いてThe Whoの「ピンボールの魔術師」を録りました。高校でのバンドは当初、クリームやツェッペリンなど英国のハードロックのコピーが中心でしたが、少しづつ音楽性が変化し、2年の時は三浦がギターとベースを曲によって持ち替え、キーボードとベースを持ち替えるもう一人のメンバーがいて、そこにドラムとういう3人で、ハードロックやプログレに影響されたオリジナルを手がけました。Presentsのメンバーと出会うのもこの頃なのですが、画像は記憶にありますが、音像はあまり記憶にありません。高校ではコーラスの山崎有里子が同級生でした。
高校を卒業、2年間時間を浪費した後に大学に入り、そこの軽音楽部に入ります。1年の途中で、三浦がメンバーだった他大学の音楽サークルのバンドからドラム加入の誘いがあり、即答で参加することにしました。後にギターのキヨもバンドに入ります。バンドはオリジナル曲が中心でしたが、スティーリーダンやデヴィッド・サンボーンの曲などレパートリーでした。高校卒業後はエリック・クラプトン、ドゥービー・ブラザーズ、スティーリーダンを聞き、次第にクロスオーバやジャズにも耳を傾け、この頃にフェイバリットドラマーのガッドに出会います。Presentsの録音は22歳の時で、三浦が抜けたバンドの活動を続けている時期にあたります。大学に入ってからの自分のドラムセットは当然ヤマハですが、タム類はYD7000シリーズです。スネアは9000、シンバルはパイステとジルジャンのミックスで揃えて、ライブハウスや学園祭に持っていきました。もちろんPresentsの録音もこのドラムセットです。このセットはまだ実家にあり、後述するライブでスネアやシンバルは現役復帰することになります。
時は経過して数年前、中学の同級生が「自宅の地下室でバンドやろう」と声をかけられ活動を再開しました。前後して、大学時代のバンドの所属するサークルのOB会に誘われて出席し、その後はOB会が主催するライブでもドラムを叩くようになり、現在に至ります。このライブでも三浦と数曲共演しています。
フラッシュバック 橋本俊哉
今になって振り返ると、42年前の22歳の時に超短期間で全員が作詞作曲をし、それを中野区の三浦の7畳の部屋にドラムセットからアンプから持ち込んで2週間でLPレコード用の宅録をした、という事実は信じられないことである。「あの時君は若かった」(by スパイダース)だから成し得たことだったのだろう。もちろんそれを力強く引っ張っていった三浦君の想いとリーダーシップが無ければ成り立たなかったこと。宅録のためにティアックのオープンリールデッキやミキサー、マイクなどオーディオ機器を調達し、3曲は音に厚みを加えるためにブラスセクションメンバーを大泉学園の方から見つけてきて自宅に呼び、ホーンアレンジを準備し、ミキシングをし、安価で請け負ってくれるレコードプレス会社を見つけてLP化する、というプロセスを就職間際の3月末までに完遂させた、という大技であるのだから。
9曲のそれぞれの楽器パートのアレンジをどうやって決めたか、ということについては記憶が曖昧である。多分それぞれが曲を持ち寄ってその場でああしよう、こうしようと決めていったのではないかと思う。楽曲提供は三浦4曲、キヨ2曲、中島・野口・橋本が1曲ずつであったが、三浦は高校時代からオリジナル曲を作っていたので慣れていたはず、キヨはギターを弾いてもメロディーメーカーであったから自然と湧き出てきたものだろう。しかし、残り3名にとってはたった1曲ずつなのに荷が重い宿題で、期限ギリギリまでできなかったと思う。ただ、この9曲が1枚のレコードになってみると、曲順の効果も大だが、なかなか良い組み合わせだったな、と今になって素直に思えるのである。
三浦の制作ストーリーにもあるが、42年間の時を経て本人達もほぼ忘れかけていた自主制作レコードが中古ショップに出ていたのを、レコード会社の方が偶然見つけて「誰が作ったんだ?」状態になり、三浦が探し当てられて再発の話が届いた、というシンデレラストーリーの様なことをメンバーの誰が予想していただろうか?もしかして、知っていたのは15年前に他界してしまったキヨだけで、我々を驚かすために送ってもらったプレゼントだったのかもしれない。
このアルバムに再会して 中島猛
まずは「あぁ、“キヨ”だ!」という懐かしい感覚。中学から高校と10代に最も長い時間をともにしたキヨ。1.4km徒歩20分というお互いの自宅を何度往復したことか。再発に携わっていただいた方々のご努力で、そんなキヨと再会できたことが嬉しい。
三浦とは高校時代から面識はあったが大学の入学式の時偶然会ってから、よく遊ぶようになった。彼の発案だったと思うが、ミュージシャンとして憧れの「ディーヴァのバックで演奏できる」という企画にのった。短期間集中でスタジオである三浦の部屋に毎日行って練習と録音。文字通りアットホームでお互いの距離感が近いのが音に表れていれば幸い。出来上がったテープ録音のミキシングのために、深夜三浦の白い117クーペで調布まで。コストダウンのために多くの時間はかけられなかったけれど、スティービー・ワンダーを聞きながら行ったのが懐かしい。
当時22歳、楽器を営業マン用アタッシュケースに持ち替えて・・というほど学生時代に楽器を頑張って弾いていたわけではないが、この録音のあと30年近くほとんど楽器に触らない生活をしてしまった。最近はジェイムス・ジェマーソンやロバート・ポップウェルなど有名ベーシストの演奏をなぞって弾くのが趣味になっている。けれども、当時は好きなベーシストとか誰かの演奏をヒントにしようということを、きちんと考えていなかったのが少々残念ではある。YouTube、楽譜ソフトはもちろんインターネットもない時代。「コードはこれだよね」みたいにベースラインを考えて弾いていたのがいい面もあるか、と思ってあきらめよう。42年前の自分に「もう少ししっかりやれよ」思うところは随所にあるが、あらためて聴いてみると「こんな風に弾いていたんだー」と意外性を感じるところも多かった。